明日より新学期(8日、推敲分)
2009年 01月 07日 | ▼
年頭に当たり一言申し上げます。
この「跨ぎブログ」も、ひとつの節目を迎えようとしています。
いままでのご愛読とご批正に感謝いたします。
このブログを持つことで、「跨ぎ」について客観的になろうという意識を
強く持ち続けることができました。はたして内容が客観的であったかは分かりませんが。
さて、今つくづく思うことは、
「教育とは総合的な営為である」ということです。
(教育に限らず、あらゆることはそうであるはずですが)
しかし、教員をやっていると、つい、今日の授業とか、生徒指導とか、部活とか、行事とか、
分掌とか、委員会とか、会議とか、さまざまな日常に追われてしまう。
もちろん、それぞれは重要な仕事です。
しかし、そのひとつひとつに捕らわれたり、自分にできる仕事の容量を超えてしまうと、
全体が見えなくなって、なすべき方向性を見失ってしまいがちになる。
そこで、多くの教員は、そのうちに自然と自分の得意な仕事に特化していく訳です。
その学校の教員となっていくためにも、それは止むを得ないことです。
しかし、私はここで、そのようなあり方に敢えて逆らってみたい。
それは、先に申し上げた「教育とは総合的な営為である」という認識と関係しています。
組織の中で我々は教員になります。それは、余程強く意識していないと
「他のことが分からなくなる」ということです。そのようにして、我々は日常に馴されていき、
だんだんとしなやかさを失っていってしまう。
その組織に所属していながら、他の教員の悪口に終始したり、自分たちが何をすべきか
見通す力を持てなかったり、という状況に落ち込んでいく。増して、学校の外のことは
想像も着かなくなってしまう。
それらは、個別の状況に埋没したり、個別の恐竜的特化を果たした結果なのではないかと
思うのです。
(不尽につき、続く)
この「跨ぎブログ」も、ひとつの節目を迎えようとしています。
いままでのご愛読とご批正に感謝いたします。
このブログを持つことで、「跨ぎ」について客観的になろうという意識を
強く持ち続けることができました。はたして内容が客観的であったかは分かりませんが。
さて、今つくづく思うことは、
「教育とは総合的な営為である」ということです。
(教育に限らず、あらゆることはそうであるはずですが)
しかし、教員をやっていると、つい、今日の授業とか、生徒指導とか、部活とか、行事とか、
分掌とか、委員会とか、会議とか、さまざまな日常に追われてしまう。
もちろん、それぞれは重要な仕事です。
しかし、そのひとつひとつに捕らわれたり、自分にできる仕事の容量を超えてしまうと、
全体が見えなくなって、なすべき方向性を見失ってしまいがちになる。
そこで、多くの教員は、そのうちに自然と自分の得意な仕事に特化していく訳です。
その学校の教員となっていくためにも、それは止むを得ないことです。
しかし、私はここで、そのようなあり方に敢えて逆らってみたい。
それは、先に申し上げた「教育とは総合的な営為である」という認識と関係しています。
組織の中で我々は教員になります。それは、余程強く意識していないと
「他のことが分からなくなる」ということです。そのようにして、我々は日常に馴されていき、
だんだんとしなやかさを失っていってしまう。
その組織に所属していながら、他の教員の悪口に終始したり、自分たちが何をすべきか
見通す力を持てなかったり、という状況に落ち込んでいく。増して、学校の外のことは
想像も着かなくなってしまう。
それらは、個別の状況に埋没したり、個別の恐竜的特化を果たした結果なのではないかと
思うのです。
(不尽につき、続く)


